約50年前のエッセイ

遠藤周作『ぐうたら生活入門』より抜粋

正義感づらをするな  自分だけが正しいとして他を裁く独善主義
私の告白
 始めにねえ、恥ずかしい事ではあるが、私は決して他には話さなかった自分自身の女性体験を赤裸々に告発したいと思う。いわば個人の秘密、プライベート・シークレットをこのように打ち明けるのは、自分としてもなかなか気が進まなかったのであるが、ついに筆を執った次第である。然し、何と言っても一人の男の赤裸々な女性体験であるから、その露骨さにあるいはこの一文によって興奮される読者が居られるかも知れぬ。驚かれてもいい、興奮されてもいい、それは諸君の自由だからだ。然し決して他言だけはされないようにお願いする。それは私にとって口にするだけでも恥ずかしい秘密なのだから。
 結論から先に申し上げれば、私はこの年になって女性に消す事の出来ない不信感を心の隅で抱くようになっている。私は今から語るように次から次へと女性に裏切られていったからでる。ああ少年のバラ色の夢よ。その中で女性は私のような男にとっても、どんなに美しいベールに包まれていたであろう。それは優しさと優雅さと可憐さ、そして、清純さの象徴であった。然し今、私の舌の上には、苦い悔恨と幻滅としかない。

女性への不信感
 思い出は25年前に遡る。25年前それはまだ中学生だった。女性というものを知らなかった。
 あの頃の思い出の一つにこういうのがある。私は女性から陵辱を受けたのである。然も他の人が見ている前で。17歳の中学生だった私。まだ童貞だった私。その私が彼女達から集団的に陵辱を受けたのである。それは今、思い出しても辛い。恥ずかしい経験ではあるが、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、赤裸々に告白したい。
 君、ゴクリと唾を飲んで乗り出すな。話すと言ったら本当に話すんだから。
 あれは大東亜戦争が始まって3、4年たった頃だった。場所は神戸の三の宮だった。そして時刻は…もういいだろう。
 中学生の私はその日、親の目を盗んで学校の帰り映画を見(当時は父兄の同伴なしでは映画に行ってはいけなかったのだ)一人、トボトボとその三の宮を通りかかったのである。
 その時、私は数人の女性から急に呼び止められたのである。彼女達はグルリと私を取り囲んだ。怖ろしかった。こわかった。逃げ出そうにも逃げる勇気さえなかった。すると彼女達の一人が猫なで声で言った。
 「あんた中学生でしょ」
 「はい」
 薄笑いをその彼女は浮かべ、後ろを振り返り、同輩たちに目配せをした。そしてその一人がやにわに片隅に私を連れていく、私の手に×(A)を握らせた。(一字伏字)
 「××(B)なさい」(二字伏字)
 「えっ」
 「××(C)なさい。中学生なら××(D)るんでしょ。早く早く」(四字伏字)
 彼女の顔は高潮し、眼は少しつり上がっていた。
 この光景を詳細に書きたいのであるが、私は恥ずかしい。然し、この本の読者はちょっとやそっとの事では驚かないたくましい人達に違いない。そこで四つの伏字を思い切って順に埋めていこう。
 A=紙、B=読み、C=読み、D=読め
 即ち彼女達は国防婦人会の会員であり、中学生のくせに夕方遅くまでブラブラしている私に「非常にあなたは非国民です」という手紙を手渡したのだった。
 子供心にも私は何と軽薄な、と思った。私がではない。彼女達である。私は彼女達のとりつかれているこの正義感が甚だしく不快であった。自分だけが正しいとして他を裁く彼女達の独善主義が、子供心にもひどくイヤだった。
 その後、独善主義ちは女の一番陥り易い習癖だと私は思った。男と女と比べると、確かに女のほうが「自分が悪い」とは考えぬ。例え、おのが悪さを、キリキリのキリまで自認せざるを得ない状態になっても、女性は次のような文句で弁解する。「私をそんな風にしたのはあんたじゃないの」或いは「どうせ、あたし一人が悪者になっていればいいんですから」

はき違えた正義感
 私は昔、駒場という所に住んでいたが、拙宅のすぐ近所の金棒引きの婆は、A家では今日、鰯を何匹買った、B家では亭主のヘソクリがどこに隠してあった等、隣の情報をあっちこっちに触れまわるのであるから、近所の主婦達はこれを快く思っていなかったが、彼女に反抗すればどんな悪口を言われるかも知れるので、障らぬ神に祟りなしという形でコワがっておったのである。
 だが、ある日から、この主婦達と婆さんが一種の同士的結束と連帯感を抱くようになった。原因は、婆さんが、すぐ近くにのかなり立派な家に、一人の若い女性が引っ越してきた事と、その女性のところに実業家らしい男がチョコチョコやって来る事を発見し、直ちに触れ回ったからであった。すると、今までこの婆さんを快く思っていなかった主婦達は、一様に道路の真ん中に集まり、
 「お聞きになりまして。お虎婆さんに」
 「私も、たった今、聞いたばかりでございますのよ。驚くじゃありませんか」
 「不潔なおはなしですわ、あんなチャラチャラした洋服を着て、どこのお嬢さんかと思ってましたら、妾ですってね」
 「子供の教育上、そんな家が近所にあってはお互いに迷惑でございますわ」
 ケンケン、ゴウゴウ論じ合っているうちに、彼女達は一種の激しい正義感に取り付かれ、このお妾に断じてイヤがらせする事が正しい人の行為だと思い込み、然もその嫌がらせをする大役を、かの婆さんに一任したのであった。つまり、こうしてまるでピエール・ガスカールの小説に出てくるようなポンチ絵的正義感が生まれ、ポンチ絵的連帯感が生じたのである。
 私はその光景を見て、昔、国防婦人会の糞婆達になぶり者にされた時の事を連想したが、元々臆病な上に、長いものには巻かれろ主義のグータラ性格の持ち主だから、敢えて彼女達を止めなかった。
 だが、一週間も経たぬうちに彼女達とお虎婆は、マーケットに行く問題の女性にイヤミを言ったり、小学生達にまで、あれは妾だよ、と教えはじめた。こうなっては臆病者の私も断固、立ち上ったのである。
 断固立ち上って何をしたか。それは言うまい。話すまい。稔るほど、頭の下がる稲穂かなであるからだ。だが私はその為に彼女達から随分、ひどい事を言われましたよ。妾の肩もつ三文文士、なんて陰口きかれてさ。然し言うまい。言うまい。
 けれどもこの時私にはハッキリ気づいた事がある。人間は自分が出来ぬ事を他人がやっておれば、癪にさわる。そしてその欲求不満をたやすく正義感に転化する事が出来る。
 例えば、この主婦達はなるほど妾という存在に腹が立ったのでしょう。然しそれ以上に彼女達が腹を立てたのは妾が自分達より「いいおべべを着て、いい家に住み、電気洗濯機を持っている」という事だったのだ。彼女達は自分がいいおべべもいい家ももっていないから腹を立てたのであって、相手が妾という事は自分達の物欲的怒りを転化させる格好の口実だったに過ぎない。

鼻持ちならぬ偽善者
 国防婦人会とこの主婦達という女性達との交渉―これだってやっぱり私の女性体験である。それ以上のヘンな事を期待しながら本文を読んだ読者にはお気の毒でした。
 によって私は自分が正義づらする事を一切しない事に決心した。少なくとも自分を正しいと思って他を裁く時、私は国防婦人会のオバさん、お虎婆さんと手を組んだ主婦達と同じ心理動機が働いていないかそう反省してみる事にしているのである
 諸君。この本の読者諸君なら私の言う事は判ってくれるだろうな。何がいやだといったって、この世には自分は正しいと思い込んでいる奴ほど鼻持ちならぬものはいないわいな。そいいうタグいが、所謂文化人の中に、主婦の中に、PTAの中に、よう、いるやないか。我々は少なくとも偽善者でないように、お互い、努めようじゃないか。



遠藤周作の作品を初めて読んだのがこの『ぐうたら生活入門』である。16歳の高校時代だ。もう既に30年以上昔のことではある。
そして、この『正義感づらをするな』だけは守ろうと思った。
自己矛盾を考えるようになった。
その点、16歳でこの本と出会えたことは誠に感謝してる。
ネットの発達によるものなのか、男性の中性化が進んでいるのか今では男女の差異は見られない。

自分の生理に合わない=すなわち悪
自分の価値観に合わない=すなわち悪

この精神構造で匿名性をいいことに個人を罵詈雑言で叩く連中のなんと多いことだろう。
もはや理性より本能に近い感情でしかない。
それに加えて、正義の後ろにあるものは単に鬱憤ばらしである。
匿名で書き込み、憶測で他人を非難し正義感づらする尊法人間を見ると心底厭な野郎だと思う。
そのような連中を指して吉行淳之介は蟹の甲羅、と言った。つまり、
硬い甲羅で守っているが中身はブヨブヨ
ということである。
私はそれ以上に彼等、彼女達の親の躾を疑うのである。

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